「シュタイナー整体」事始め

「 もの忘れすることが少なくなると、多くの病いは起きないで済む」

真夜中のケータイ

これは19世紀末から20世紀の初めにかけて、ドイツで心と魂の科学を追求した ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)のことばです。さっと読むだけですと、もの忘れと病いのあいだに何のつながりがあるんだ、と不思議に思ってしまいそうです。シュタイナーは癖のある言葉遣いをしますので、何を言っているのか分かりにくいこともありますが、すこし立ち止まってみましょう。

あるとき。真夜中に自分のケータイが鳴っていると思って、わたしの目がさめました。でも夢でした。耳を澄ましても、ケータイは音をたてていなかったんです。着信記録も入っていませんでした。さえない頭でしばらくそのことを考えていたところ、夢の中で聞こえた音は本物の音と同じ高さだったのではないか、と思えてきました。ふとんから起き上がり、台所においてあったケータイをトイレに持ち込んで鳴らして見ました。曲はドビュッシーの 「アラベスク第1番」。夢の中で鳴った音と寸分ちがわない音の高さでした。

meeting
友が島を望んで
鳥たちの会議

絶対音感がないのに

私には絶対音感がありません。つまり鳴った音の高さがピアノの「C (ハ)」音にあたるのか、それとも「Es (変ホ)」音にあたるのかといった違いを、音を聴いただけで聞き分ける力がありません。小さいときから訓練すれば、そういう力がつくそうですけれど、私にはその音感がない。

ですから、私は自分のケータイの音がどの高さの音なのか、これを書いている今もわかりません。でも夢の中に元の音とまったく同じ音が出てきた。ということは、私が音の高さもまるごと記憶していたということになります。絶対音感がないのに、音の高さを正しく覚えていたわけです。こんなことに気づいたのは初めてなので、いろいろと考えているうちに眠れなくなってしまいました。

私はいままで、ケータイの音の高さを正確に覚えようと思ったことなどありません。ところがぴったり正しく覚えていた。これはどういうことなのか。ケータイの音をいつも聞いているからなのでしょうか。どうもそうとばかりは思えません。人の記憶の中には、すべてのことが残っているという説がありますけれど、そう考える方が正しいのではないか。そんな風に思います。(こんな話が整体と何の関係があるんだ、って? まあそうおっしゃらず、もう少しお読みください)

絶対音感のある人は、記憶の中にある音の高さを「C」なら「C」という概念に変えて、実際の音の高さをこの概念化した音と結びつける力があることになります。「メガネ」といえば 誰でもどんなものか分かりますが、それは自分の中にメガネという概念があるからです。だからメガネといわれただけですぐに分かる。音の高さについても「C」という概念を持つことができれば、その音を聴いただけで、すぐにあれは「C」だと分かるわけでしょう。絶対音感がない私のような人間には、音の高さを概念としてとらえて、これを現実の音と結びつける力が欠けています。

もの忘れを防ぐ

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いいことがあったでしょう?

もの忘れも、これとよく似たところがあります。たとえば鍵やメガネといった小物をどこに置いたか忘れることがあるでしょう。 鍵をどこにおいたか忘れたというのは、よく考えてみると、鍵をおいた時のイメージを場所と結びつけることができていないということです。鍵を置いた記憶はある。しかしどこに置いたか思い出せないとすると、「鍵を置く」という動きの記憶と 「場所」の記憶がうまく結びついていないわけですね。

すると、シュタイナーが「もの忘れをすることが少なくなる」といっているのは、「記憶のあいだの関連付けがよくできるようになる」と言い換えてもいいことになります。

シュタイナーは、こうしたことが行われるのは人間の「エーテル体」においてだ、という。 では「エーテル体」とは何かが問題になりますね。私は一般に《気》と呼ばれているエネルギーだと考えます。人間を動かしている生命エネルギーといってもいいでしょう。人のからだは物質としての肉体だけでできているのではなく、肉体+エネルギーでなりたっている。シュタイナーの言い方では 「アストラル体」とか「自我」とかが、さらに統合されて人が生きている、ということになりますが、整体の対象になるような身体という範囲では、肉体+エネルギーと考えていいでしょう。

「もの忘れをすることが少なくなる」というのは、からだにとっていい変化です。でも肉体を養ったわけではありませんから、「エーテル体」つまりエネルギーを養ったことになる。もの忘れをすることが少なくなると、エネルギーを養ったことになるとシュタイナーは言っているわけです。別の言い方をすると、もの忘れをしない工夫をすれば《気功》をするのと同じ効果がある。そう彼は言っているわけです。

もの忘れをしない工夫

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治平か治五郎か

これは面白い説です。私はこの説に賛成したい。《気功》 をすると誰でも、からだの中でエネルギーが動くのを感じるからです。意識とか感覚とかだけではなくて、実際に自分の中に何かのエネルギーがあって、それが動いている感じです。《気功》という言葉を使うと、それにとらわれる人があるかもしれませんから、別の言い方をしましょう。呼吸をするときに、後頭部から息を吸い込むつもりになると、息が背中を通っていく感じがします。吐くときはお尻のあたりから背中を通って息が出て行く感じ。どうです、カンタンでしょう。シュタイナーの言ったことを私のことばに変えてみましょう。

「もの忘れをしない工夫をするとエネルギーが養われ、病いになりにくなる」。

そのためにシュタイナーはどうしなさいと言っているか。例えば、机のうえに鍵をおくとします。その時に机がどんな色をしていて、どんなデザインなのか、よく見ながら鍵をおくようにする。そうすると、机のイメージがよく残って鍵のイメージと結びつく。鍵をどこにおいたか忘れて探し回ることがなくなる。 このように説明しています。これは納得がいく考えではないでしょうか。私も「気がついたら」この工夫をして記憶力を強化したいと思っています。

ただし一度や二度、これをやったからといって効果が出るわけではないでしょう。シュタイナーは、努力を一か月つづけてみなさい、と言っています。そうすれば何かが確実に変わってくるだろう、と。どうやら、これまで整体の世界があまり気づいてこなかったことをシュタイナーは色々考えていたようです。これは探ってみる意味がある、と私は思っています。

エネルギーを養うと体重が増える?

ところで私のことで恐縮ですが、私は毎日のように体重を測っています。私は痩せ型ですから、別にダイエットの効果を見るためではなく、どれだけ生活によって体重が変化するかに、いつも意識を向けていたいからです。

どこか山道を歩いて来たりすると、体重が増えていることが多い。その日たくさん食べたということは全然ない。山道を歩いていたりするわけですから、むしろ普段より食べる量は少ないかもしれません。ところが体重が増えていることが多いんです。「多い」というより、ほとんどいつもそうだ、といっていいほど。昨日などは<山の辺の道>を歩いて来たところ、1キロ以上も増えていて、驚いたくらいです。これは何を意味しているか。 山の空気や植物たちからエネルギーが養われ、その分が体重として現れているのではないか、と私は考えているのですが、皆さんはどうお考えでしょうか。

(2006. 11 初出、2007. 11 改訂)