呼吸法の勝利

「統合失調症なんです」と、ものすごく暗い声で入ってきたのはK青年です。以前にKさんは腰痛で来たことがありました。入ってきたKさんの表情は、腰痛で来た時とは打って変わって本当にひどいもので、顔色は悪く、とてもしんどそう。「眠れないんですよ。夢ばっかりで」といった時の言い方には、何かぞくっとするような雰囲気さえ感じられました。それが呼吸法でよくなったんです。

セロトニンの欠乏

飛び飛びながら、それでも彼は何度か朱鯨亭の門をくぐってくれた。整体屋として私は色々な努力をしましたけれど、それよりもむしろ他に何か手立てがないものかと、そちらを中心に考えていました。

bali
バリ島のお面

統合失調症だといってくる人はほとんどありませんが、うつだとか、パニック症だと名乗ってくる人はけっこういます。そういう人たちの手がかりとして何か自分でできることはないものかと以前からいろいろ探してきました。その中で特に注目していたのは、セロトニンという脳内物質がこのような症状と関係しているという考え方でした。

脳の下の方、脳から背骨へ降りていくあたりでセロトニンという物質が作られます。これが不足してくると、日中に活動する力が落ちて、うつになったり、パニック症を引き起こしたりするらしい。このことは有田秀穂さんというお医者さんが指摘しています。関心をお持ちの方は『セロトニン欠乏脳 ―― キレる脳・鬱の脳をきたえ直す』(日本放送出版協会、NHK生活人新書)をお読みください。

呼吸法を使ってセロトニンを増やす

この有田さんと同じような観点から、これを体質改善のために利用しようという本があります。高田明和さんの『ストレスをなくす心呼吸――心は呼吸と姿勢にいかに影響されるか』(リヨン社、新書)という本です。目次を引用しておきましょう。

vojmontrilo
道を示すもの

第1章 心呼吸はなぜストレス解消にいいの?
     あなたの呼吸をチェック
     自分の姿勢を点検しよう
     呼吸法とセロトニンの関係
     対人関係と心のしくみ

第2章 実践編―心呼吸でストレスをなくす
     坐禅と呼吸と心の関係
     呼吸を変えれば自分が変わる!
     究極の呼吸法
     言霊の呼吸法
     足心呼吸法
     呼吸法の効果の判定

呼吸とか歩きのようなリズム運動を繰り返すことで、セロトニンが身体の中でよく生産されるようになるという内容を説明した上で、この本を私はKさんに貸してあげた。Kさんの状態はかなりひどかったですから、実のところ私は、彼が熱心に呼吸法と取り組んでくれるとは、それほど期待していませんでした。

呼吸法が効いた

ところが昨日Kさんが久しぶりにやってきた。一か月ぶりでしょうか。驚いたことに、にこにこしながら入ってきたんです。

「うれしそうだけど、何かいいことあったの」と私。
「もうだいぶ良くなったんです」とKさん。

私が貸してあげた『心呼吸』の本を差し出しながら彼は、

「これ、ありがとうございました。薬はほとんど飲んでませんしね。飲むのを忘れているくらいです。睡眠薬は飲んでません」。
「元気そうやね」
「元気、元気」

この日、昼休みにぎっくり腰の人が入ってしまったもので、私は昼食を食べる時間がありませんでした。そこで妻が届けてくれたサンドイッチがありましたので、これを彼とわけあってお茶を入れ、頬張りながらさらに尋ねてみました。

chicory
チコリ(キクニガナ)の花

「どうしてそんなに急によくなったの? 何が効いたんだと思いますか?」と尋ねると、

「呼吸法で助かったんだと思いますよ」
「やっぱり呼吸法か」
「ええ」
「一日にどれくらいやったの」
「一日に3回」
「何分間ほど?」
「20分ずつです」
「へええ。それは熱心や。よくなるはずや」

有田さんの本によると呼吸法は20分が限界で、それ以上してもダレて効果が落ちる。だから15分~20分程度がよいそうです。本を彼が正確に読んで、その通り実行するだけの素直な心を持っていたことがカギだと思います。理屈ばかりこねるけれど、なかなか実行しないという頭でっかちの人は損ですね。素直な人は得をする。

素直な心の勝利

さらに彼が付け加えていったこと。これには真実がこもっているように感じました。

「睡眠薬はよくないですよ。これまで夜中の3時に寝て、朝の8時に起きるような生活をしてました。それで快調やったのに、眠れなくなったために、12時ごろに睡眠薬を飲んで無理やり眠るとしますね。そうしたら日中ものすごくだるいんですよ。調子が悪い。薬をやめて自然に眠るようになったら、からだの調子がずっとよくなりました。この前、回転ずしを18皿食べましたしね」
「え、何を18だって?」
「回転ずしですよ」
「それはすごいな。今度はあたらしい彼女を見つけることやね」
「今度はもう少し慎重にやりますよ」
「なるほど。でも呼吸法がそれほど効いたとは、驚きやね」
「呼吸法もそうやけど、睡眠薬はからだをだまして無理に寝ようとするから、変になってしまう。からだのリズムがおかしくなるんでしょうね。ぜったいよくないと思います」
「私は睡眠薬を飲んだことがないけれど、いろんな人の話を聞いていると、そう思うねえ。だけど睡眠薬をのんでいる人は、ものすごく多いんやないかな」
「そうでしょうね。やっぱり呼吸法がいいですよ」

この言葉には何ともいえない説得力がこもっていました。素直な人は得をします。私自身の心にも喜びがあふれました。ああ本を貸してあげて良かった。

( 2006. 11 初出 )