正體術と操体法

全身があらかた1~2分で整ってしまう方法さえあったらなあ、とつぶやくあなた。それがあるんです。正確にいえば、あるようなんですよ。

hokusai-manga
北斎漫画より

不整の直る形にして

昭和初期の出版という、まことに古い本の話で恐縮です。高橋迪雄・著『復刻版・正體術矯正法』(たにぐち書店、1986年、絶版)という本があります。これは三部からなっていて、「正體術大意」(大正15年)・「正體術矯正法」(昭和2年)・「からだの使ひ方」(昭和3年)の合本です。私はこの本をバラして使っています。現今はやりの「自炊」をしたためではなく、分厚くて扱いづらいからです。

現代の整体の目から見ても大いに興味をそそられる本でして、その第2分冊に次のような箇所があります。[  ]内は引用者による。

――先づ自分のからだの骨骼 [こっかく] の不正 [現代語で言えば不整] の部分を見つけ出すことに没頭して、不正の見当がついたら、今度はそれのなほるやうに、手足を動かして見るのです。ある形にした時、その不正がなほるやうでしたら、今度は全身の力を抜いた形 ── つまりねるのが普通です ── にしておいて、その部分だけ必要な形に動かし、不正のなほる形でヂッと三秒か五秒とめておいて、急に力を抜いて、グタリと落してしまふのです。この全身の力を抜き、その部分だけ動かし、暫 [しばら] く止めておいてガタリと力を抜き切る所に、矯正法の秘伝があるのです。

これと同じようなことを操体法の橋本敬三さんが初期の本に書いています。原本が手元になく、正確な言葉遣いは引用できませんが、ほとんど同じことを書いています。若いころ函館に住んでいた時代、橋本敬三さんは正體術を高橋迪雄さんのお弟子さんから長い期間にわたり習ったことがあるそうですから、同じようなことを書いていて当然でしょう。

こう言うと、操体法と逆の方法ではないかと言われるかもしれません。確かに。矯正したい形にしておくのは操体法の考えからすると、逆になるかもしれません。逆であるかどうか真剣に考える人たちもいるでしょうが、そういう理論の話は今はどちらでもいいとしておきます。ここでは上に書いた方法がたいへんに役立つことを伝えておきたい。と言っても、高橋さんが書いていることは原則なので、このままでは役に立ちません。具体的な方法として鍛え上げることが必要です。

私は上の本をもう何度も何度も読んでいます。旧かなですし、詳しく書いてあるわけでないし、言葉遣いは難しくないものの本当に理解するのは難しい。でも理解できないことはないだろうと信じて読んで試してみる内に、すこしずつ分かって来たことがあります。まだ公表するところまで行っていませんが、いずれまとめて何か書けるのではないかと考えています。

現に先ほど、これを書いているうちに背中が急に痛くなってきて、この方法を試してみたら、もう今はほとんど何もありません。ほんの1分ほどで大変効き目があるのは間違いない。昨日など、これを色々使いました。お蔭で、時間が短縮できて、助かっています。

hokusai-manga
北斎漫画より

「ドスン」か「フワッ」か

正體術と操体法の関連について書いた以上の文章に対して、両方は逆でなく同じ操法ではないか、というご意見をいただきました。実はそうだと私も思います。ここのところが両方の関連性について考える時の勘所なので、少し詳しく見ておくことにします。細かい議論になるかもしれませんから、興味のない方はこの項目を飛ばしてください。

元祖の正體術の操法はどうするのか。まず、修正したいようにからだの形を整えておき、それとは反対の方向にドスンと落とすのが正體術です。感覚をとらえて表現すれば、「不快」から「快」の方向です。からだが歪んでいる時にその歪みを修正しようとすると、どこかが痛かったり突っ張ったりする。そういう突っ張りのある方向から、解除される方向へ動かすのが、正體術の真髄でしょう。上の引用部分に書いてあった通りです。

一方、正體術から影響を受けて成立した操体法では、初め「らくでない方」にからだを持って行き、ついでこれをフワッと「らくな方」へ動かします。「不快」から「快」へという表現もよく見掛けますが、そのように表現してもいいと思います。「気持ちのよい」方向という言い方をすることもあると思います。

すると両者はやり方が違うとはいえ、同じことをしていることになります。事実、操体法の場合も、修正したい方向から、それとは反対の方向へ動かすということをやっているわけで、その意味でも同じだといっていいでしょう。違いは、ドスンとやるか、フワッとやるか、その点だけです。

hokusai-manga
北斎漫画「かっぱ」

一回か連続か

ところが実は、もう一つ両者の間には違いがあります。正體術では一つの操法ですべてを決するので、打ち込みは一回に限るとしています。高橋迪雄さんは確かにそう書いている。高橋さんの説明を克明に読んでみると、たった一回だけの衝撃で筋肉があるべき位置に入るから、何度もやると無茶苦茶になってしまうと、そういう考えのようです。

これに対して操体法は、複数の操法を続けて行ないます。これが大きな違いです。フワッとやりますから、衝撃の心配はありません。何度も連続して色々な操法をやっていいわけです。というか、むしろ色々とやらないと、なかなか整わないのが私が操体法をやって見た時の実感です。

まとめると「ドスン」か「フワッ」か。「一回」か「連続」か。この2つの大きな違いがあることになります。どちらを選ぶか、それは一つには操法をする人の性格にもよるのではないでしょうか。1回で決しようとする人と、ジワジワと少しずつやろうという人と、性格というか体癖というか、違いがあることでしょう。それと打ち込みの衝撃があるかどうかという違いもある。主体の側の条件と客体の側の条件と、2つの条件が重なって違いが出ているのではないか、と私は思います。

操法をする人の性格などと曖昧なことを言ってはならない、という考えの人もいるでしょうが、私はこれは意外に重要な要素なのではないかと思います。人は決して機械ではありません。性格・好み・感じ方の違いをそれぞれ備えている存在です。操法する側にも違いがあることを見落とすべきでないと私は考えます。一言でいえば操法にも個性があります。

同じことをしても人によって操法は微妙に変わります。それを無理に同様のパターンに押し込もうとしてはならない。その人その人の操法があって当然です。操体法が好きな人、正體術が好みにあう人、それぞれでしょう。

で、操体法の橋本敬三さんは函館時代に正體術の真髄に届くほど研鑽を積んだ。でもどうも自分の感覚と馴染まないものを感じた。別の方向を模索して、やがて操体法という方法に行き着いた。そんなことではなかったか。橋本敬三さんは95歳くらいまで長寿をたもち続けました。その間に様々な変遷があっても不思議ではありません。ちなみに橋本敬三さんの生涯については、ウィキペディアの 「 橋本敬三 」 の項目に書いてあります。

(2012. 12 初出)