判断ということ

判断することは難しい。簡単に判断できると思っている人はうかつに信用できないのではないか。

rotus

事実の判断と価値判断

「判断する」という言葉があります。「判」は「分ける」とか「分かれる」、「断」は「切る」とか「断つ」ですから、物ごとを「Aグループ」と「非Aグループ」とに「切り分ける」というほどの意味でしょう。

例えば、こちらのレストランの食べ物は「うまい」が、あちらのレストランの食べ物は「うまくない」などと、私たちは毎日いろんな判断をしています。もちろん、このような価値判断だけでなく、この操法は「よく効く」、この操法は「効かない」と判断することもあります。これは事実の判断です。収穫した豆を「売り物になる」豆と「売り物にならない」豆とに分けるなら、それも「判断」の一種です。

事実の判断は別として、価値判断は人によって結論が異なる場合があります。レストラン「朱鯨亭」の料理を人によって「うまい」とするか「まずい」とするか違うかもしれません(ある時、おたくは鯨料理の店ですね、と電話がかかって来たことがありました!)。客観的な基準があるかと問うてみると、一人ひとりの好みがありますから、それぞれがまことに主観的な判断でものを言うことになります。評論家たちは、いかにも客観的な判断をしているように装いますが、客観的な判断など不可能だと言った方がいいでしょう。音楽の価値判断なども、人によって全然違う。一つの演奏をある評論家は絶賛し、ある評論家は酷評するというのは珍しくありませんね。

tuwabuki
ツワブキ

事実の判断も難しい

こんな具合ですから、たとえ事実の判断であっても判断というのは難しい。特に人の身体に操法を施すという場合の判断は難しい。観察から始まって、→ 判断 → 操法 → 確認と四つ段階があって、その段階の一つが「判断」です。観察に基づいてこの人の身体はここがこうだからこの操法をしようと「判断」するわけです。的確な判断ができるためには的確な観察が必要ですから、観察が重要なのは間違いありません。

ですが、観察さえ的確であれば的確な判断ができるかとなれば、そうは行きません。Aの操法とBの操法とでは効果が違う。あるいは同じような効果があるとしても、効果の大きさが違う。つまり効き方が違います。ある操法をした後、その操法が果たしてその人に効くかどうかは観察だけでは決められないかもしれません。

またAの操法をしてからBの操法をする方がいいのか、B → Aの順にするのがいいのか、このあたりも微妙なところがあるでしょう。あるいはAの操法をするとして、一度でいいのか、何度か繰り返すのか。これも機械的に決めてしまえません。

また人によっては症状がいくつもある。10ほども症状を並べる人は、決して珍しくありません。特に数多くの症状を抱えている場合、いったいどこから手を付けるのか、これも難しいところです。

ですから観察の結果に基づいて判断し操法する時、どうしても操者の好みや主観が入ります。むしろ操法は、そういうものだといったほうがいいのかもしれません。つまり受け手の生きざまと操者は向き合うわけですから、操者の生きざまも操法に出てくる。二人の生きざまの交流が操法だ ということになります。

操法をする際の判断の難しさは、この辺りにあります。症状がすべて異なること。人によって効果がすべて異なること。操者の技量によっても、結果が違ってきますから、操法について一般的にものをいうのは本当にむずかしい。この場合はこうだ、あの場合はどうだと、断定的にものをいう人を警戒した方がいいのは、このような問題点があるからです。むしろこういう問題点を自覚して慎重な言い方をする人の方が信頼できると私は思っています。

chikori
チコリ

マニュアル化できないものを学ぶ

こんなわけですから質問を受けるのは難しいことが多い。やって来られて、いきなり「治りますか」と尋ねる人がいますが、そういう質問にすぐに答えることはできません。症状をメールや電話で聞かれても、答えるのは至難のわざ。質問して来る人のお気持ちは理解できますが、そう簡単ではないわけですね。操法のわざに決してマニュアル化できない部分が残るのも、こんなことがからんでいるからではないでしょうか。

では、講座ではマニュアル化できない部分は教えないのか? 私自身はどのようにしているのか、と振り返ってみると、実は私の判断と操法を例として示しているのだと思います。自分のことは分かりにくいものですが、じっと振り返ってみると、そんな風に思います。

それは例えば「茶道」の師匠も同じではないかと思いますね。師匠は自分の好みというか、自分の生きざまに従って茶道の組立を例として示しているのではないだろうか。伝統に従っているだけではつまらないものになるのは、そういうことでしょう。「生け花」や「落語」も同じだと思います。最終的には師匠が例を示すより他に方法がない。弟子は、師匠の操法を真似るのが勉強です。何でもマニュアルの世の中ですが、マニュアル化できないものを学ぶところに本当の勉強があると私は思っています。そうしているうちに、その人独自のものが生まれてくる。

一人ひとり人格も骨格も違いますから、10人の人がいれば最終的に10人とも操法が異なる。同じ技術を使っていても同じにならないのは、そういうことではないか、というのが結論です。

( 2014. 06 初出 )