「スポーツは身体に悪い」

カッパブックスだったかに『スポーツはからだに悪い』という本がありました。そういえば確かにスポーツでからだを壊してやってくる人が実に多い。やはりそうだな、といつも一人で頷(うなづ)いています。いま何かスポーツをしている人や、していた人は認めたくないだろうけれど、スポーツのやり方を根本から考え直すことが必要ではないでしょうか。

一部を酷使する

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奈良公園で

例えば、野球。「国民的スポーツ」なんて言われるけれど、本当にそう思っているとしたら大変だ。野球少年の肩や股関節がボロボロになっていることが多いのを人びとは知っているのでしょうか。

野球をしている中学生や高校生の肩を何度も見ましたけれど、それはひどいもんだ。目をそむけたくなるほどです。肩を酷使するわけですから、それもやむをえないのかもしれません。あるいは昔、少年野球をしていた人。これも同じです。極端に肩の悪い人が多い。

それから股関節のひどさ。しょっちゅう走っているわけですから、股関節が悪いわけはないだろう、と思うんですが、癒着寸前といってもいいほどカチカチなのが多い。これも酷使しているせいでしょう。股関節が硬いと全身が硬くなってくる。

野球少年にあぐらをかかせてみてください。ちゃんとあぐらがかけていますか。両方のひざが床から大きく浮いていませんか。大きく浮く人は股関節が硬くなっています。野球少年の多くは股関節を硬くしているんではないだろうか。

片寄り疲労がたまる

もう一つ悪いのは、からだの左右どちらか一方だけを使う動きが多いことです。投球・送球に右肩だけを使う。打撃に左回りの動きだけをする。これはテニスやゴルフも同じですね。一方に振る運動ばかりをします。テニスなら、逆の動きも少しはあるでしょうけれど、多くない。筋肉を一方にばかり使いますから、からだがねじれて来ます。これが腰痛を起こす。中学生の腰痛なんてカッコウ悪いけれど、増えているんではないかと心配です。

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春日大社の森で

どこか決まった筋肉ばかり酷使されて、用のないところはほとんど使わない、というアンバランスが怖い。次第に身体がねじれたり、ゆがんだりしてきます。こういうゆがみはすぐに影響が出るわけではありません。何だかからだの調子が悪いという形で始まる。ところが大人になると、これがじわっと効きはじめる。そういう経過をたどる人が多いように感じます。

からだのアンバランスが大きい人に、昔スポーツを何かやっていましたか、と聞くと、やっていた、という人が多いですね。剣道や柔道などの武術はどうでしょうか。武術は全身の対応が必要だから、身体の動きがそんなに左右でずれていることはないと思っていましたが、剣道や柔道でからだを硬くしてしまっている人もずいぶん多い。これは指導が根性論で、ともかくやれという軍隊式になっているからではないでしょうか。

ねじることが多いスポーツなら、終わったあとで、逆方向に何度かねじらせておけば、問題はかなり防げるはずです。ちょっとしたことのようでも小さな注意が大切です。

指導者の勉強不足?

このような例をいつも見聞きして思うのは、指導者がもっとしっかりしてくれたら、ということです。スポーツの指導者は子どもたちの身体についてよく理解し、子どもたちをしごいて勝たせることだけを至上課題にしないなら、もっとよくなるでしょう。ヨーガの項目にも書きましたが、指導者が人の身体についてよく知らないために、多くの人がからだを傷めてしまっています。これが危ない。スポーツの指導者は、人の身体について、もっとよく研究することが望まれますね。

その意味で、最近「ゆる体操」などの提唱がされているのは歓迎できます。むやみに筋肉トレーニングのようなことをするよりも、ゆるゆると、ちょっと見ると怠けているような感じの体操が、むしろ効果を挙げるというのは面白い。

「寂動正体」の提唱者・上村巌さんが書いておられることで、興味深い記述があります。高校の卒業生が卒業後しばらくしてやってくると、体育クラブの卒業生はからだを壊していることが多い。これに対して、文化クラブの卒業生はそのような例がほとんどないというのです。注目に値する現象でしょう。体育クラブの指導者は、この問題を心に止めて対策を考えてほしい、と思いませんか。

試合は必要なのか?

もう一つ、私が根本的な疑問を抱いていることがあります。試合(ゲーム)ははたして必要なのか、という問題です。今よく行われているスポーツは、たいていがゲーム型のもの。自分ひとりで身体を動かすことを愉しむ、あるいは仲間と一緒に愉しむ、といった登山、ジョギング、ハイキング、ヨーガなど、アスレチック型のものはスポーツの仲間に入れてもらえません。その証拠にオリンピックの種目に「ヨーガ」は入っていない。なぜでしょう。だれも疑問に思わないのでしょうか。

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ロンドン・コベントガーデンで

バスケットボール、バレーボール、卓球、ラグビー、サッカー、その他いろいろ、本来ゲームとは無関係の水泳とか、体操、弓道、そういったものまで、すべてゲームの色に染め上げられています。2008年の北京オリンピック公式サイトを見ると、「北京2008オリンピック・ゲーム」Beijing 2008 Olympic Gameと書いてあります。オリンピックの目的がどこにあるか、その潜在意識がゲームという言葉に表れているように思えます。

ゲーム全盛から抜け出すこと

いまは世の中が「競争社会」だと言われる。その原理がスポーツにまで浸透しているんでしょう。ドーピングが後を絶たないのは「競争社会」の影が映し出されているからだと感じられます。社会のあり方が変わらなければスポーツも変わらないのかもしれません。

そして私は、ゲームは競争社会の原理を習得させる巧妙な仕組みなのではないか、と疑っています。ゲームに慣れ親しんでしまうと、ゲームをするのが当たり前だと思ってしまう。ゲームを疑わない精神が出来上がる可能性があります。ゲーム機がそれに拍車をかけていないでしょうか。この前たまたまゲームセンターをのぞく機会がありました。銃で相手をやっつけるゲームがあちこちで行われていて、何ともいえず暗い気持ちになりました。

優劣や勝敗をあらそう必要がいったいどこにあるのだろう。そうでなくても子どもたちは、学校で常に成績の競争をさせられているではありませんか。放課後まで競争に駆り立てるのは、何が目的なのか、よく考えてみる必要があります。「スポーツ」がいつの間にか「ゲーム」万能になって、そのことを疑う人がほとんどいないところに問題がありますね。

この世界が美しいと感じる瞬間は勝敗(損得)とは無関係です。泳げない人が泳ぐことに成功した瞬間のよろこび。これこそ、ほんとうに素晴らしい。

( 2006. 10 改訂 )