そよぐ身体

興味ぶかい本を読みました。福岡伸一『もう牛を食べても安心か』(文春新書)という2004年に出た本です。題名にひそかに洒落が封じてあるのは別として、この中で紹介されているドイツ人の研究者ルドルフ・シェーンハイマー(1898~1941)が行なった実験に興味をそそられます。ちなみに題名の答えが気になる人のために先にこの本の結論を書いておきますと、安心とは言えない、です。

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マングローブ(西表島)

不思議な実験結果

で、狂牛病の話はさておきまして、シェーンハイマーはどんな実験をしたか?私たちは三度の食事から蛋白質(たんぱくしつ)を摂りますね。魚や豆、肉などの蛋白質を食べると、それが消化器官でアミノ酸に分解されて吸収されます。これは中学校でも教えていることです。

一方、からだを作っている蛋白質は、皮膚が傷んだり内臓が故障を起こしたりして、少しずつ分解します。その窒素分は尿の中に尿素などとして出て行きます。その代わりに、食事から取り入れたアミノ酸が次第に置き換わっていく。こうして身体は少しずつ変わっていく。多くの人がそう思っています。そのことは間違ってはいないでしょう。

ところが、ユダヤ人であったシェーンハイマーはアメリカ亡命後に、次のような実験をします。蛋白質に含まれている窒素(普通は14Nという窒素原子)を少し重い窒素原子15Nと置き換えて、ネズミに与えてみました。すると驚いたことに、一回の餌として与えた15Nの半分以上、56.5%が身体の中に取り込まれていました。少しずつどころではなく、一度の食事量に含まれる蛋白質の半分が入れ替わってしまった。しかも驚くことは、それだけではありません。

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珊瑚礁(沖縄)

アミノ酸が変化していた

ここから先は話が少しややこしくなりますから、ゆっくりお読みください。アミノ酸にはアスパラギン酸、ロイシン、グルタミン酸など20種類ほどあります。(詳しい説明は Wikipedia にあります。)

シェーンハイマーはロイシンというアミノ酸の窒素を15Nと置き換えました。すべての窒素を15Nに置き換えたのではなく、置き換えたのはロイシンの窒素だけでした。常識で考えると、蛋白質は消化器官のなかでアミノ酸に分解されて吸収されるはずですから、ロイシンの窒素だけが置き換わっているはずです。ところが実験結果は違っていました。他のアミノ酸の窒素も置き換わっていたというのです。

ということは蛋白質はアミノ酸まで分解しただけでなく、ネズミの体内でいちど完全に分解してから再び別のアミノ酸として合成されているか、あるいはそこまで行かなくても、アミノ酸がある程度のレベルまで分解してそれが再構成されて別のアミノ酸ができていると考えるほかありません。

この実験から分かることは、私たちの身体がたったいちどの食事でも確実に変わりつつあるということです。著者の福岡伸一さんは、これを「生物学史上のコペルニクス的革命」と呼んでいます。

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沖縄風の屋根(西表島)

知られていない科学者

検索にかけてみると分かりますが、シェーンハイマーの名前はあまり知られているとは言い難い。DNAの構造で有名なジェームズ・ワトソンを日本語で検索すると94,000、ルドルフ・シェーンハイマーは2,000です。紹介者の「福岡」を除外し「ルドルフ・シェーンハイマー - 福岡」として検索するとわずか900あまり。ワトソンと比べて2桁も知られていません。

また英語で検索すると James Watson は114万件、Rudolph Schoenheimer は2,000件ほどですから3桁ちがいます。まったく知られていない人だといっても間違いではないでしょう。シェーンハイマーが謎の自殺を遂げたことも関係しているのかもしれません。彼が亡くなった1941年にニューヨークタイムズが写真入りで大きく報道した様子が福岡さんの本で分かります。「著名な化学者の死、科学のパイオニアが服毒自殺」とタイトルにあります。

それはさておき、私たちの身体は決して実体として固定したものでなく、わずかの時間でどんどん変化しているものだということが60年以上前に明らかになっているわけです。海の波が海水のパターンであるように、私たちの身体は、身体を構成している物質の作り出すパターンであることを、シェーンハイマーの実験は示しています。言い変えると私たちの身体は、蛋白質や脂肪、水などの物質が作り出す波のようなもの、空気の作り出す風のようなものと考えられることになります。私たちの身体も「諸行無常」の変化の中にある。

身体の諸行無常

突然はなしが変わりますが、整体の世界からこれを見るとどうなるでしょうか。よく整体やカイロを受けても、すぐ戻ってしまうという話を聞きます。それは確かにそうかもしれません。整体を受けて2~3日、はなはだしい場合は、数時間後にはもう元に戻っている、という話には真実があるかもしれない。

しかし私は逆のことも思ってしまうんです。高々1時間そこそこ触っただけで、人の身体がガラっと変化してしまうことがある。これはなぜなんだろう、と思うことがよくあります。すぐに元に戻ってしまう人も多いけれど、急激に変わってしまう人も多い。これはなぜなんだろう、と。でも、人の身体が波や風のような諸行無常の存在だとすると、これは不思議でないかもしれません。整体を受けた後、2~3日でその人の身体が大きく変わっていても、諸行無常であれば決して不思議ではないことになります。

整体に限らず、ヨーガや体操などをした後、身体の筋肉や骨格が大きく動いているとしましょう。そこへ三度の食事が入ってきます。筋肉などを作っている蛋白質は、どんどん新しいものに入れ替わって行きます。すると、わずか数日でその人のからだの構造が大きく変化することもありうることになりますね。あまり変わらない人はどうなっているのか。いまのところ確定した答えは出しにくいですが、その人の癖、生活習慣がからだの変化に大きく関係しているのではないか、と思っています。

やわらかに風のようにそよぐ身体と、硬くてあまりそよがない身体があるのかもしれません。

( 2009. 01 初出 )